100分de名著特別授業 「銀の匙」

最近は気がつけば

書店に行く機会も減り、

Amazonさんが薦める

本ばかり読んでいる。

 

これって、私が好きそうな

本ばかり読んでいるって

ことになるので、

もう少し視野を広げて

みようかなと思い、

人気のブロガーさんや

youtuberさんがどんな本を

読んでいるのかチェック

してみる。

 

すると、なぜかやたらと

「中勘助」という名前が

目につくようになり、

これはシンクロと

呼ばれるもの????

 

スピリチュアルな

ことは信じてないけど、

今の私に必要な本かも

しれない。

 

そう思い、中勘助という人の

の本を読んでみることにする。

 

でも私はこの作者を知らない。

 

なので、名前の読み方から

調べてみる。

 

ちゅう・か・ん・す・け

 

じゃなく、

 

な・か・か・ん・す・け

 

と、読むそうだ。

 

 

時代は明治18年〜昭和40年

Wikipediaの写真を見ると、

なかなかなイケメン💕。

 

藩士の子供で、上流家庭で

育ち。

 

母親は病弱だったので、

叔母さんに育てられ、幼少期は

叔母さん以外の交流はなく、

神経過敏な子供だったようです。

 

高校に進学すると、なんとその

学校には、イギリス留学から

帰ったばかりの夏目漱石

が講師として着任しており、

漱石先生直々の講義を受けていた

んだとか。

 

すごいご縁だわ〜。

 

さて、中勘助という人物を

調べたものの、日本語をまともに

勉強してこなかった私には

この人の本は敷居が高い気がした。

 

どうしたものか・・・・💦

 

結局、今回はさわりだけに

しておこうと、斉藤孝先生の

 

 

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100分de名著特別授業

「銀の匙」  斉藤孝 著

 

 

を選んでみることにする。

 

この本は、全文「銀の匙」を

深掘りしていくスタイルではなく、

要所要所に「銀の匙」の一文が

紹介され、斉藤先生が得意とする、

本の味わい方などが懇切丁寧

に書かれているので、とっても

読みやすかった。

 

 

天気のいい日には叔母さんは

アラビアンナイトの化けもの

みたいに背中にくっついてる

私を背負いだして年よりの足の

つづくかぎり気に入りそうな

ところをつれてあるく。

 

ふんふん。

確かに斉藤先生がおっしゃるように

背中にくっついている私という表現は、

普通の人には到底出てこない表現。

この辺りまではなんとかついていける。

 

親友おけいちゃんとの友情が

表現されている場面。

 

そののち二人の友情は、いま咲く

ばかり薫をふくんでふくらんでる

牡丹の蕾がこそぐるほどの蝶の

羽風にさえほころびるように、

 

美しい表現だということは

私にもわかる。

でも、私が純文学と言われる

本につまづく理由は、ここに

あって、語彙力のない私には

まわりくどく感じ、眠く

なっちゃうんだよね〜

 

というのが本音です。

 

あ〜やっぱり私には中勘助を

読むのはまだ早いと思った

ところで、斉藤先生から救いの

お言葉。

 

文学を読む楽しさは、立ち止まって、

味わって、振り返って、沈潜する

ことができて初めて感じることが

できます。このように、中勘助の

体験世界と自分の体験世界を

重ね合わせるという複雑な作業を、

私たちは「読書」の中で行っています。

 

『銀の匙』は、中勘助の感覚に

降りていくと同時に、自分の

子供時代に戻りつつ、自分の

体験世界を重ね合わせながら

読んでほしい。

 

『銀の匙』を読むことがきっかけとなり、

スイッチを押され、自分の体験を入れて

おいた壺の蓋があちこちで開き、

子供時代の感覚が蘇ってきたのです。

 

なるほど〜

 

本を読んでいて、ある言葉が

きっかけで、自分の過去の

出来事を思い出したり、想像や

妄想を膨らませては、なぜ

私は読書に集中できないんだろう

と思っていたので、これはすごい

発見!!

 

そして、斉藤先生が

 

みなさんは子供の頃、誰かに

おんぶされた時のことを覚えて

いるでしょうか。何か思い出せる

ことはありますか。

 

聞いてきたので、

私は自分のおんぶされた記憶を

思い出してみる。

 

一度目は、私が高熱を出し、

父におぶってもらい、近所の

町医者に行った時。

 

そして、二度目はおんぶというより、

担がれたというのが正しいのだけど、

大雪が降った夜のことを思い出した。

 

すると、今まで何十年も忘れていた

記憶がワラワラと溢れ出てきて

収集がつかなくなった。

 

そこで、せっかく思い出したので、

ひとまず、自分の記憶をまとめて

おこうと思い立つ。

 

私が住んでいたアパートは、

多摩川沿いにあり、2階建の

木造建築。

 

当時でもかなりオンボロの

アパートで、共同の炊事場と

トイレがあり、2階には私の家族を

含め、3世帯が住んでいた。

 

部屋の仕切りは、引き戸一枚。

 

そんなアパートになぜか

おしゃれなおばさんが

一人で住んでいた。

 

私は小さかったので、

大人になってから知ったの

だけど、おばさんは、ある男性の

お妾さんだった。

 

残念なことにおばさんは、

子宝に恵まれなかったので、

隣に住んでいた私をまるで

我が子のように可愛がってくれた。

 

その可愛がりようといったら、

私の両親が困惑するほど。

 

私が欲しがるものは全て

買ってくれるし、私が

いじめられていると聞けば、

いじめっ子達を呼びつけ、

高価なお菓子を与え、

今後いじめないようにと

お願いしていたほど。

 

その上、私のために

「東京子供クラブ」という、

今でいう”しまじろう”の

のような子供向けの教材をとって

くれたり、いろいろな本を読んで

くれた。

 

これだけ、私に手をかけて

くれたので、当然と言えば

当然なんだけど、私は、

おばさんにすっかり懐いて

しまった。

 

ある日、父が、おばさんの家から

帰りたがらない私を無理やり

引き摺り出し、

 

「お前なんかうちの

子供じゃない!土手に

行って捨ててやる!」と

言い放ち、まるで米俵のごとく、

泣き叫ぶ私を担いだ。

 

おばさんやアパートの住人が

止めるのも聞かず、

堤防の階段を登った瞬間、

雪が凍っていたので、

父親は階段から転げ落ちた。

 

おかげで、私は大きなたんこぶを

こしらえたが、土手に捨てら

れずに済んだ。

 

なぜ父親はこんなに怒ったのか?

もちろん、私が甘やかされて

いることを心配したからだと思う。

いや、思いたい。

 

でも正直言うと、親としてのメンツを

保ちたかったのではないだろうか。

と、私は思っている。

 

私が中学に入る頃には、

おばさんは、おじさんと

別れ、実家に帰ってしまい、

おばさんとは一度も会って

いない。

 

でも私が結婚するときに

報告の電話をして、声を聞いた

のが最後。

 

関東大震災の時に7歳だったと

言っていたから、今もお元気なら

105歳。

 

どうしているかな・・・

 

考えてみれば、私の家族は誰も

本を読む習慣がなかったけど、

私が今こうして本を読む

ことができているのは

おばさんが、きっかけを

作ってくれていたんだと

中勘助の言葉を通して思い

出すことができた。

 

そして、改めておばさんに

感謝したいと思った。