読書は他人の脳とのつながり?

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 私は、自分に教養がないことが、ずっとコンプレックスでした。

 

結婚後、これを克服しようと、レポートの書き方すらわからないのに、通信制のある大学に入学し、なんとか6年(途中出産)をかけて卒業しました。

 

ところが、卒業すれば、このコンプレックスともおさらばできると思っていたのに、結局、克服することができないまま、時は流れていきました。

 

そして、子育てがひと段落し、占いを学び始め、人を占うようになると、またまたこのコンプレックスがひょっこり顔を出して来るようになりました。

 

でも、一昨年の手術がきっかけで、ヨガ哲学と出会い、本を読むようになったおかげで、私が囚われていたこのコンプレックスは、無意味なことだと気付きました。

 

もし、過去のコンプレックスをそのまま抱えていたら、今のように自分が読んだ本についてブログを書くことはなかったと思います。

 

なぜなら、読書(書評)ブログを書く人というのは、教養が備わっていて、賢い人が書くものという常識があったからです。

 

でも今は、自分が学びながらブログを書くのだから、未熟であってもいいと思えるようになりました。

 

そして、最近自分が感じていたことをうまく言葉にしてくれている本に出会いました。

 

 

 「五十歳からの勉強法」和田秀樹 著

 

ひとつの答えを知るためではなく、多様な答えがあることを知るためにこそ、勉強があるのだ。

 

 

 

 本を読み続けて気づいたことは、この世に正解なんてどこにもないということ。

 

たくさんの本を読むということは、教養を深めるだけでなく、本を書いた人との接点が生まれ、私が一つのデバイスだとしたら、たくさんの便利なアプリがダウンロードされることや、アップデートされて、進化していくのと同じ。

 

 

「本を読む人だけが手にするもの」藤原和博 著

 

作品は作家の「脳のかけら」である。その脳のかけらを、読者は本を読むことで自分の脳につなげることができるのだ。 

 

 

 

「勉強の哲学 来るべきバカのために」千葉雅也 著

(Kindle の位置No.2102-2105)

勉強とは、これまでの自分の自己破壊である。これまでの自分は、環境のなかで保守的に生きてきた(保守的状態)。それは、環境における「こうするもんだ」=コードにノっていたということである。ところで、勉強とは、別の考え方=言い方をする環境へ引っ越すことである。新たな環境のノリに入ることである。 

 

 

過去の私を例えるなら、高層マンションに囲まれた、狭小住宅に住む住人。何も見えていなかった。でも本を読み続けたことで、今は、狭小住宅から、見晴らしのいい小さな家に引越せたようです。

 

こんな私でも読書が続けられる理由は、まずは簡単な本を読むこと。難しいと感じたら、即放置。

 

今回、「勉強の哲学 来るべきバカのために」という本も、今の私には難しい。(笑)

 

でも理解できるところだけ読めばOK!

 

本を読み続けていけば、その放置した本もいつかは読めるようになる。そう思って今日もAmazonでポチりまくります。

 

あ!あと、Kindleunlimitedもおススメです。ひと月980円で読み放題で、入門書なども豊富で、人気のある本が、以前よりも増えていてとても便利ですよ。