続くかな?シリーズ6 Part2「インド哲学」

自粛生活が続いておりますね。

 

私の仕事は、今回の自粛対象に

 

含まれないので、通常通り

 

勤務しております。ブラックか?(笑)

 

 

 

私は、毎日Twitterをチェック

 

していますが、今回のコロナに

 

ついては、有識者であっても、

 

それぞれ見解が全く違っていて、

 

とても興味深いです。

 

そして、今日のテーマでもある

 

哲学も、この宇宙の根源

 

や、人間の存在、生きる意味

 

について考える学問ですが

 

学び始めてみると、哲学者それぞれの

 

言っていることが違うことに

 

気づきます。

 

 

 

 

さて、今日は前回の続き

 

「脳がどうやって

 

『私』という意識を生み出して

 

いるのか?」について

 

考えてみたいと思います。

 

 

「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」

飲茶 著

 

脳という機械は、「脳細胞(ニューロン)が

外部からの刺激によって

興奮すると化学物質を放出し、

隣の脳細胞(ニューロン)を刺激する」

ということを延々と繰り返しているだけ

にすぎない。どれだけ脳が複雑で

素晴らしい情報処理を行っていようと、

「実際にやっていること」は

これだけのことである。

~中略~

哲学的に「私の存在条件」を厳密に

考えると、「脳があれば、私は存在する」

と簡単に結論を出すことはできない。

現時点において「脳がどうやって

意識現象を生み出しているのかは

わかっていない」ということは

紛れもない事実なのである。

 それがわかっていないのだから、

『私』という意識現象を生み出して

いるのは、実は「脳ではない」という

可能性も否定できない。もしかしたら、

「タマシイ」みたいな未知の何かが

あって、そいつが脳に宿っている

ときだけ「意識現象」が起きている

のかもしれない!

 

 

 

死を恐れる人にとって、この体(脳)が

 

なくなれば、全てが終わりだと

 

考えることはものすごい恐怖です。

 

でも「タマシイ」と呼ばれるものが

 

存在していれば、救われた気持ちに

 

なります。

 

 私も「タマシイ」と呼ばれるものが

 

あって欲しいと思う。

 

でも、私の母は認知症で、すでに

 

自分が誰かわからなくなっているの

 

ですが、その状況を考えると、

 

やっぱり「私」=「脳」ではないか?

 

そんな気持ちにもなります。

 

 

 

次は、ヤージュニャヴァルキヤの話に

 

戻します。

 

 

「ああ、どうやって認識する

ものを認識できるであろうか?」 

 

 

つまり、認識するものを

 

認識することは絶対にできない」と

 

妻へ説明しているのですが

 

私はこの時点で、頭がパッカーンと

 

割れて中からひよこが出てきそうなほど

 

チンプンカンプンでした。

 

 

そこで、認識できないという

 

なら、無理にでも認識したと

 

仮定してみよう!ということで

 

 

「認識するものを認識した!」

 

キッパリ!言ってみますが

 

この 「認識した!」に対応する

 

認識するものが存在しなければ

 

ならないそうです。

 

つまり、この認識したと

 

言い張っている認識するもの

 

どこかに存在しているので

 

この認識しているものも

 

認識しなければならない・・・・(^_^;)

 

 

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れれれれれ

 

これ終わらないんじゃない?

 

昔、お母さんの三面鏡で自分を

 

見たら、向こうにたくさん自分が

 

映っている状況と似てますね。

 

 

 

これが無限に繰り返されることを

 

『無限遡行(むげんそこう)』と呼び

 

『認識するものは認識できない』ということ

 

だそうです。

 

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そして、「私」とは?という問題ですが

 

アートマン(私)は、決して認識対象とは

ならないのだから、「私はAです」

「私はBです』と言うことは

本来的にできない。

なぜなら「私は◯◯です」と

言うときの「◯◯」とはすべて

「認識対象となったもの」だからだ。

 ~略~

 もし、それでもどうしても「私」

という存在をを言語で表現したいと

すれば、それはもう「私はAでは

ありません。私はBではありません

(私はAに非ず、Bに非ず)」という

否定的な言葉でしか言うことができない。

 

ええええ???

 

じゃ~~私って誰?

 

私たちは、いつも頭の中で

 

自分だと思って生きてるのに?

 

 

 

そう。インド哲学は

 

「私」だけでなく

 

この現実世界も 

 

幻想であると言っているのです。

 

びっくりでしょ?

 

 

さらに驚くのは

「図説インド神秘辞典」

著 伊藤 武

p410 

 

W・ハイゼンベルグらによって

唱えられた不確定性原理では

近代科学がよって立つはずの

「客観的な現実」なるものを

否定する。

大雑把な言い方をすれば、現実

なんて、見方しだいでどうにでも

見える、というのがこの原理だ。

 

アインシュタインの相対性理論も

空間や時間なんて、伸びたり

縮んだりう歪んだり、人間が思って

いるほど確固としたもんじゃない

という点で現実絶対主義者を脅かす

にじゅうぶんだ。

〜略〜

すべて、われわれが思っている

現実なんて仮想、思い込み、感覚

の惑わしにすぎない、とする

印哲の立場に荷担するものなのだ。

 

 

 

 

古代インド、お釈迦様もいなければ

 

孔子様もいない時代に

 

現代の科学に近い内容が説かれて

 

いたことに驚愕です。

 

 

 

ということで、この本を読んだ

 

後に、復習もかねて

 

 

映画「マトリックス」を

 

私の引きこもりツール

 

Amazonプライムビデオで

 

鑑賞しました。

 

 

映画の中のセリフ

 

現実ではない?

現実とはなんだ?

明確な区別などできん

五官で知覚できるものが

現実だと

言うのならそれは

脳による電気信号の

解釈にすぎん

 

 今回お勉強した内容が

そのままセリフになっていました。

そして、キアヌ・リーブスが

めっちゃ若くて素敵です〜💕

 

 

 

マトリックス (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video