梅原猛の仏教の授業「法然・親鸞・一遍」

  最近本屋へ出かけると、「死」をテーマにした本が多く並んでいて、驚きます。おそらく団塊世代の多くの方々がこのテーマに興味を持つようになったからではないかと思います。

 

今回ご紹介する梅原猛先生の「仏教の授業 法然・親鸞・一遍」は、ひと言でいうと、あの世への行き方を学ぶ本です。

 

梅原先生の書き出しにこんな言葉がありました。

 

(Kindle の位置No.33-37)

鎌倉仏教の中でも私がもっとも親しみを持っているのは浄土教である。そして『法然の哀しみ』という大著を書き、今親鸞についても大著を書こうとしている。この本はそういう浄土仏教についての研究書であるが、単なる研究書ではない。米寿という思いがけない年まで生き延び、近く「死」を迎えるに違いないと思っている私は、今、浄土仏教の二種廻向の思想によって悟りを得ようとしている。

 

これを読んだとき、梅原先生も「死」への恐れを持っていたんだなと思いました。

 

この本のお話の中で、19歳の親鸞上人が、尊敬する聖徳太子のお墓で、3日間籠もって祈願をしていた際、「お前の余命はあと10年だ」と太子からお告げがあったそうです。

 

梅原先生は、これについてこう書いています。

 

(Kindle の位置No.1300-1301)

私にはこのときの親鸞上人のショックの大きさがわかります。なぜなら、私も二十歳の時に軍隊に入り、死を覚悟したことがあるからです。当時は、軍隊に入るということは死ぬことだと思っていました。青春の日に心に刻まれたこうした思いは忘れられないものです。私もこのときに覚悟した「死の思い」は、今も心のどこかに深い傷として存在しています。

 

深い傷・・・なんかすごくわかります。私も一昨年以来、しこりのように残っています。

 

(Kindle の位置No.220-225)

 今、私の中には、法然上人にあることを教えてもらいたいという強い思いが宿っています。それは何かというと、「あの世への行き方を教えてもらいたい」という思いです。〜略〜 七十代の時には意識しなかった死の教師としての法然上人の姿に、九十歳を目前にした私は強く惹かれ、その教えを受けたいと心から思うのです。

 

なるほど。梅原先生が悟りを得るためになぜ法然や親鸞なのか不思議に思ったけど、90歳を目前にした梅原先生は、法然はあの世への行き方を教えてくれる「死の教師」だったんですね。なぜかというと、法然の教えを集めた「西方指南抄」は、あの世への行き方を教えてくれる指南書だからだそうです。

 

それなら私も知りたいです!

 

ということで、今回は法然と親鸞についてゆるゆると学んでみたいと思います。

 

法然

 

1133年生まれ 

岡山県出身

父母は殺害されて、母方の伯父の僧侶に引き取られ、仏教の最高学府の比叡山で、出家し学び始める。

1156年、京都市にある清涼寺で七日間の参籠(祈願)をした際、そこに集まる民衆をみて、衆生救済について深く考えるようになる。

 

その後、師の叡空と念仏の解釈を巡ってぶつかります。

 

可愛がってくれた師と争うということは、よほど自分の思想に自信がなければできないもの。さて、どうしてそこまでできたのか?

 

中国浄土教の善道の「観無量寿経疏」思想に影響を受けた法然は、慈悲の仏である阿弥陀如来が、ごく一部の人々しか極楽浄土にいけないのはおかしい!仏教は平等な教えだとという信念があったからでした。

 

そして、1175年、43歳の時、新しい宗派「浄土宗」を開こうと比叡山を降りて、「ナミアミダブツと称えれば、無知な人も悪人も、どんな人もすべて極楽浄土に往生できる」と、人々に説いて歩きました。

 

それまでの貴族だけの仏教が、差別を受けてきた女性や一般人も極楽浄土へ行けると喜ばれ、法然の思想は広まっていきました。

 

 

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そして、この思想に共感した一人が、親鸞というわけです。

 

この本で、梅原先生は、親鸞は源頼朝の甥にあたると言っています。その辺については詳しく書きませんが、親鸞は、日野家と呼ばれる中級貴族の生まれで、出家後も比叡山でトップの慈円に可愛がられるなど、そのまま行けば出世街道まっしぐらの人生だったはず。

 

ところが、政治権力と密接な関係にあった師の慈円に対して、いろいろ思うところがあったのでしょうか?

 

1201年、このとき親鸞29歳。エリートの親鸞が仏教界ではアウトサイダー的存在だった法然の思想をどこでどう知ったのか?定かではありませんが、親鸞は、これまでいた比叡山を捨て、専修念仏を説く法然に入門するのでした。

 

国立博物館のサイトにこのときの親鸞の気持ちと思われる言葉があります。

 

例え地獄におちようとも、その教えを信じて念仏をすると決断しました。

 

比叡山での教えが全てだった親鸞が、その道から外れるということは、それまで信じていた神を裏切るのと同じ。どれほどの決意だったのか窺い知ることができます。

 

ですが1207年、既成教団(比叡山)から専修念仏に対し、弾圧が起こり、なんと!!

 

後鳥羽上皇により念仏停止がくだされ、法然は四国、親鸞は越後へ流罪となり、二人に別れが訪れたのです。

 

親鸞35歳、法然75歳

 

親鸞はその悲しみを歌に残しています。

 

会者定離ありとはかねて聞きしかど昨日京都は思わざりけり

 

出会いは別れの始まり。知ってはいたけどまさかこんなに早く訪れようとは思ってもいませんでしたと号泣する親鸞に

 

別れ路の さのみ嘆くな法の友 また遭う国のありと思えば

 

法の友(仏道を学ぶ友)よ。嘆くことなどありません。またあの世で再開できるのだからと法然は返したのでした。

 

 別々の道を歩み始めて5年の歳月が経ち、流刑が解かれ、法然のいる京都へ向かおうとしていた親鸞。しかし親鸞のもとには、法然が亡くなったという知らせが届いたのでした。

 

法然の死にショックを受ける親鸞、法然のいない京都には用はないと阿弥陀如来の本願を関東で伝えていこうと奮起し、東へと向かったのでした。

 

 

 さて、ゆるゆると法然と親鸞の出会いから別れまでを見てきましたが、四十歳という年の差があり、師弟関係であるのに親鸞を法の友と呼ぶ法然の懐の大きさや優しさに感動しました。そして、法然が仏教における革命を起こした人物だということが、驚きでした。それなのに法然の存在がそれほど評価されていないのは少し残念です。

 

この本によれば、法然の父親と母親は、自分たちの身に危険が迫っていることを察知し、跡取り息子だった法然を守るため、まだ幼い法然を出家させたとあります。 今回、法然と親鸞の別れ、そして幼い我が子と、2度と会うことがないかもしれない法然と母親の今生の別れという場面がありましたが、私もこの年になると人ごとではなく、その場面を想像すると切なく、悲しい気持ちになります。

 

でも死について考えることは、いつ別れが訪れるかもしれないと思うと、全てが愛おしく大切にしたいという気持ちになるから、とても大事なことだと思いました。

 

 

 さて、最後になりましたが、結局、法然のあの世への行き方、死生観はどのようなものなのでしょうか?

 

それは、生まれ変わりを信じること。

 

梅原先生はこれについて

(Kindle の位置No.904)

こうした死生観を非科学的だという人もいますが、私はそうは思いません。なぜならあの世とこの世を永遠に往還するという考え方は、現代の遺伝子学と合致する部分があると思うからです。

〜略〜

生から死へ、死から生へと続く永遠の旅を、遺伝子は続けているのです。魂の不死ということは遺伝子の不死と言ってもいいのかも知れません。

 

 

と、おっしゃられていました。やはり輪廻転生なんですね。私はまだ完全に信じきれていませんが、最近はその方向へ導かれているような気がしています。それはまた今度。