占いと水野南北

 

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算命学の智恵(4)より

 

今から三十年ほど前になろうかと

思います。神保町の古本屋で

水野南北の書いた「南北相法」と

出会いました。

それまでは算命学の

干支の暗示する世界、

またそれを読み取る技術にのみ

没頭していました。

ある時、高尾宗家より

「弟子たちは干支の技術に

あまりにはまり込みすぎていて、

視野が狭くなっている。

干支の技術を基本におくことは

大切だけれど、もっと広い自由な

観点から見て行かないと、行き

詰まってしまう。」とのお話を

頂きました。

また宗家は、「運命は必ず人間の

顔や手、姿勢、言動にも表れてくる」

とおっしゃられ、その方面の大家には

水野南北という江戸時代の観相家が

いることを教えてくださいました。 

 

わ〜

やっぱり、最初は誰もが技法ばかりに

囚われてしまうものなのね。

 

おっと

こんにちは。

今日はまたまた

南北先生についてです。

 

私は、算命学を学び始めた当時、

この校長先生の書かれた本を

読んで、宗家が勧めている

のだったら、私も読んでみよう

と思ったまま放置。

すっかり忘れておりました。

 

 

さて、今日は前回に続いて、

観相家としての南北先生に

ついて学んでみたいと

思います。

 

水野南北先生は、観相学の大家。 

なのに先生は、ある時、

自分の観相学の

矛盾に気がつきました。

 

それは、貧乏、短命な相でも裕福で

長寿になるものもいれば、裕福で、長寿

の相であるのに貧しく、短命の人が

いる矛盾です。

 

 

算命学で占っていてもこういうことって

よくあります。

 

また、技法が複雑に重なれば重なるほど、

矛盾が生まれたりします。

 

ですが、南北先生はある結論を

導き出しました。

 

たくさんのお弟子さんがいた

南北先生。ある時、お弟子さんから

「相貌を見極めるための、その

根本とは、いったいなんでしょうか」と

聞かれました。それに対して、先生は

こう答えます。

 

 

ただただ天地の徳を積むこと。

それは飲食を慎むことに尽きる。

 

 

水野南北先生が書かれた

「修身録」という本は、ほぼこれに

着地します。

 

 

さらに続きます。

 

 

これらを常に行い、天から下る吉凶を

受けとめ、みずからがそれを味わって、

そうした経験の後に、人に接してその

相を観ることだ。

これが相者の正しい在りようである。

〜略〜

だから人を相するということは、

すべからく自分自身の

慎みにかかっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

そして、先ほどの

算命学の学校長の

「算命学の智恵(4)」には、

 

算命学の技術の裏づけとなっている

宇宙の法則、運命の仕組みをきちんと

理解し、把握すると、自分の心を

しっかりと見直すようになる。

省みるようになる。その中でひとつの

気づきを得て、心の次元を高めてゆく

と、凶運の時にはさほど運気は下がらず、

また吉運の時には予想以上に運気があがり

ます。

 

 

 

① まずは人体図に現れる星の意味通りに

生きる事。

(これは天が自分に与えたエネルギーを

完全に燃焼させるもので、それによって

まず運気が立ち上がります。

但し、そのままでは算命学の技術で

予測された通りの凶運、吉運の波動に

揺れ動かされてしまいます。)

 

②与えられたエネルギーを燃焼させな

がら、自分の心の次元を高めて行く

事(この段階からは、目先の守護神、

忌み神に左右されない強い絶対的な

運の波動を手に入れる事が出来ます)

 

この②の手がかりとして、宗家は弟子たち

に宗教心を持つ事を勧められたのです。

 

算命学と縁が出来た者は、心と生き方に

ついて深く思いを致す必要があります。

 

 

 当時、これを読んだとき、

算命学は道教から

きていると言われていても

宗教と占いがどうしても

結びつかなかった。

でも、今ならうなずける。

 

 

 

 


 

 

 

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