今日のお題は「暗示」について

このブログって、占いのブログだったよね?
そうなのよ。今もこのブログへのアクセスのほとんどが、算命学や占いというキーワードで検索してきた人ばかり。
でも現在の私は、ヨガ哲学や仏教など学ぶことの方が楽しくなってしまって、それどころじゃない。それと、自分の生死、人生についてヨーガや仏教などで学び始めたら、自分のこれまでやってきた占いに疑問が生まれたから。

私にとって、占いは、自分に起こった理不尽な出来事に意味づけすることであったり、占いで未来を予測することで、心の準備、転ばぬ先の杖になればいいと思っていたんですよ。


ところが、いざ自分の死というものを身近に感じた時、占いが、「自分はこういう人間」という思い込みを作り上げていることに気がついたんです。もちろん占いは、私がこうして精神分野に興味を持つように導いてくれたので、全否定するつもりはないけど、占いは暗示だということ。それが良い暗示ならまだしも、悪い暗示だったら?


なので今日は、「暗示」について。

「ヨーガに生きる 中村天風とカリアッパ師の歩み」より

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それは、生まれ落ちた時から、周囲の人や自然の現象に至るまで目にすること、耳から入ることすべてが暗示となり、心の奥底にたくわえられていく。こうして人間は、智恵もつくし、情操も豊かになって成長していくのだが、問題は、その心の奥底へ送り込まれる内容の良否なのである。だからこそ、幼児期から思秋期に至るまでは、とくに注意しなければいけないのだが、大人になってからでも、やはり朱に交われば赤くなるのだから決しておろそかにはできない。

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しかし、成人後であっても、三郎(モデルは中村天風氏)のように病気からくる不快感や苦痛がつづくと、陰鬱な心そのものが自らへの暗示となってしまうし、ましてそれを口に出すと、より暗示は効果的なものとなってしまう。さりとて、必要な時には苦痛や気分の悪さを口にしないわけにはいかない。医師に対しても病状を言わなければ診察にならないし、家人とて実情を知らなければ、治療に協力することもできない。ただ言う必要もない時に愚痴をくだくだとならべたてるのは、文字通り愚かだと言うことなのである。だからこそカリアッパ師は、嘘でもよい、元気だと言え、そう言ったのだが、言葉から受ける自己への暗示を良いものに置き換えたと言う点で、この処置は、精神科学の上から見ても、極めて合理的だと言いうるのである。

 



占いだけでなく、私たちは、様々な影響を受け、暗示を受け入れている。
私も小さい頃から母や姉から「あんたはデブだからダメ」「バカだから仕方ない」「疫病神」と罵られたおかげで、自己肯定感の低い人間となり、カルト宗教にハマってみたり、DV男に心酔しボコボコにされるとか・・・まぁ色々な目に合いました。でも周りの言葉で、これだけの暗示にかかるということは、良い暗示もかけられるということ。
だから自分が発する言葉は、とても大事。

良い暗示が大事だとわかったところで、具体的にどうすればいいのか?過去にこのブログに書いた「奇跡の脳」という本の中でも「脳に口出しをする」と作者が言っていたけど、まさにそれそれ!!という本を見つけました。

 

マイ仏教 (新潮新書)

マイ仏教 (新潮新書)

 

 

みうらじゅんさんは、あの「ゆるキャラ」「マイブーム」という言葉を生み出したお人。仏像マニアでも知られていますよね。あの怪しげな風貌。若い頃の私は、タモリ倶楽部に出ている安齋肇さんと区別がついていませんでした。(笑)


言葉というのはとても便利で、それがあったからこそ人間はここまで進化してきたが、一方では悪い影響も人間に与えてきたはずです。どうしても人間の脳というのは、言葉に弱くて、言葉に洗脳されがちです。また、言葉があるから基準もできて、基準があると人は他のものと比較してしまいます。
人間は弱いもので、常に自分を他人と比較して生きています。また、比較しなければ、自分がどのような位置に立っているかを自覚できないものです。良いか悪いか。かっこいいかカッコ悪いか。おもしろいかおもしろくないか。幸せか不幸せか。この世にいるのが自分だけだとしたら、比較もしないし、もしかしたら苦しみも生まれないかもしれません。他人がいて、それを比較する言葉があって、はじめて自分の立っている位置を認識します。比較できるからこそ人類は進歩したのかもしれないし、比較こそが苦しみを生む原因なのかもしれません。これを「非核比較三原則」と私は勝手に呼んでいます。

 

 

お釈迦さんが、「諸行無常(すべてのことは、変化する)」や「諸法無我(この世に実体はない)」という教えを説いたのも、このような比較の苦しみ、つまり「比較三原則」に早く気づきなさい、ということなのかもしれません。この世界が諸行無常で諸法無我なのだとしたら、比較しても仕方ないし、そこに優劣はつかないことになります。先に述べたように、お釈迦さんが地位や家族を捨てて出家したのは、守るべきものを持つべきでないと考えたためではないでしょうか。守るものができると、どうしても他と比べ比較してしまいます。結果、欲望や執着も出てきてしまいます。言葉があることが原因で、他人との比較を生んでしまい、それが苦しみの原因だとするならば、それを逆手にとって、言葉を上手に使ってポジティブになれる方法もあるのではないかと思います。



人間はいつも脳主導で動いているように見えますが、このように言葉を無理矢理にでも発することで、その0.1秒後に脳がついてくる、ということに気づきました。これは言葉からの解放かもしれない、と逆説的に思うこともあります。普段、脳は先輩面していますが、たまには先輩を困らせて見るのも一つの手ではないでしょうか。

 

 

彼女にフラれた
仕事がうまくいかなかった
あの上司が嫌い
どのようなケースでも「そこがいいんじゃない!」と、本当はよくないかもしれないけど、そう唱えることで少しは楽になれるかもしれません。言葉を逆手にとって、逆境を跳ね返し、少しでも元気になるように仕向けるのです。仏教も最終的には生きることを肯定していると思うので、そうした意味ではあながち間違った方法とは思いません。
また、同じように「不安タスティック!」という言葉もお薦めします。不安というのは突然やってきます。その瞬間、「不安タスティック!」と唱えれば、少しは楽になるかもしれないと思って、実践するようにしているのです。私の盟友で特殊漫画家の根本敬さんに、「でも、やるんだよ!」という名言があります。これも根本さんの「念仏」です。ボブ・ディランの「How does it feel?」というのも念仏のひとつかもしれません。アントニオ猪木の「元気ですか!」もそうかもしれません。猪木さんも大変なことを乗り越えられ、「元気であればなんでもできる」という悟りを得られたんだと思います。

 


バカボンのパパのセリフ「これでいいのだ」もそうですね。
私は、仕事中に時間がなくなってくるとすぐに動揺し、失敗をしやすいということがわかっているので、荒くなった呼吸を整えながら「Om・Mani・Padme・Hum」〜♪オン・マニ・ペメ・フン♪〜と唱えるようにしています。すると、不思議なことに時間が止まったように仕事がスムーズになることに気づきました。おかげで、今は本業がめっちゃ楽しいし、充実しています。